日: 2026年10月30日

Linuxカーネルの脆弱性 CVE-2026-98432:原因と暫定対策(nftablesの暫定緩和策へのリンクあり)

2026/10/31 9:44 追記

以下、本件の続いての対応策を記しています

概要

2026年10月15日、LinuxカーネルのIPv4 TCP処理に関する脆弱性 CVE-2026-98432 が公表されました。

CVSS 3.1の評価は9.8(Critical)。認証を必要とせず、ネットワーク経由で攻撃が成立する可能性がある脆弱性です。

今回の問題は、TCP接続の確立処理において、使用中のメモリ領域を適切なタイミングで解放できていなかったことに起因します。

筆者のように公開サーバーを運用している方は、カーネルの更新が必要になるため、対応状況を確認しておきたいところです。

今回は、脆弱性の原因と影響を整理したうえで、Ubuntuにおける修正カーネルの適用方法と、パッチが提供されるまでの暫定的な対応についてまとめます。

筆者環境

  • OS:Ubuntu 24.04 LTS
  • Kernel:Linux(Generic)
  • 対象:IPv4 TCP処理
  • CVE:CVE-2026-98432
  • 公開サーバー:Apache等を運用

1. 脆弱性の概要

今回の脆弱性は、LinuxカーネルのIPv4ネットワーク処理に存在する Use-After-Free(解放済みメモリへのアクセス) です。

問題となったのは、TCP接続の確立処理で使用するソケットオプションの解放タイミングです。

具体的には、tcp_v4_syn_recv_sock()による子ソケットの生成と、再送されたSYNパケットに対するSYN-ACKの生成が並行して実行された場合、同じメモリ領域を参照しているにもかかわらず、先にメモリが解放されてしまう可能性があります。

本来、複数のCPUコアから参照される可能性があるメモリについては、RCU(Read-Copy-Update)の猶予期間を経てから解放する必要があります。

ところが、修正前の処理では通常のkfree()によって即座に解放していました。

修正では、この部分をkfree_rcu()に変更し、参照中の処理が完了するまでメモリの解放を遅らせています。

つまり、今回の問題はメモリを解放する処理そのものではなく、他の処理がまだ参照している可能性を考慮せずに解放していたことにあります。

1.1. 影響とリスク

悪意のある細工を施したTCPパケットによって、この競合状態を発生させられた場合、主に次のような影響が考えられます。

  • サービス停止(DoS) 解放済みのメモリを参照した結果、カーネルパニックが発生し、OS全体が停止する可能性があります。
  • メモリ破壊 解放されたメモリ領域が別の用途に再利用された場合、予期しないメモリアクセスが発生する可能性があります。 メモリ破壊を利用した権限昇格やコード実行もリスクとして考えられます。

今回の問題はアプリケーションのログイン処理などを経由するものではなく、OSのTCP/IP処理層で発生します。

そのため、Webサーバーに認証機能を設けたり、SSHのログイン制限を強化したりするだけでは対処できません。

1.2. CVSS 9.8という評価について

今回の脆弱性はCVSS 3.1で9.8と評価されていますが、ディストリビューションによって評価には差があります。

例えばRed Hatでは、攻撃に必要な競合状態を成立させる難しさを考慮し、CVSS 3.1で5.9と評価しています。

とはいえ、攻撃が成立した場合にOS全体が停止する可能性があること、ネットワーク経由で認証なしに攻撃できる可能性があることは変わりません。

公開サーバーを運用する立場としては、修正パッケージの提供状況を確認し、対応を進めておきたいところです。

2. フェイズゼロ:政治交渉

さて、技術的な対策に入る前に、もう一つ済ませておくべきことがあります。

政治交渉です。

個人で運用しているサーバーであれば、作業時間も再起動のタイミングも自分の裁量で決められます。

しかし、組織で運用しているサーバーとなれば話は変わります。

  • カーネルの脆弱性が公表された
  • 修正済みカーネルへの更新が必要である
  • 更新を反映するためにOSの再起動を伴う
  • その間、サービスが一時的に停止する
  • ついては、○時頃から○分程度の作業時間をいただきたい

といった、利用者への周知という名の政治交渉が必要になります。

このあたりは運用者の政治的な立ち位置、つまり、担当者や担当部門がどこまで強権を振るえるかによっても言い方や手段が変わってきます。

ただし、今回に限っては少々強気に出てもよいのではないかと筆者は考えています。

昨今、サイバー攻撃によるサービス停止や情報漏洩がこれだけ問題になっている状況です。

その中で、CVSS 9.8という重大な脆弱性が公表され、しかもネットワーク経由で攻撃される可能性がある。

ここまで条件が揃っているのであれば、

「業務に影響が出るので作業を控えてほしい」という要求に対して、「脆弱性を放置することによる業務への影響をどう評価するのか」と切り返すだけの材料は十分にあります。

予定した時間にサービスを停止することと、攻撃によって予期しない時間にサービスが停止すること。

どちらが業務に与える影響を制御しやすいかは、考えるまでもないでしょう。

そのため、今回は「作業を実施してよいでしょうか」というお願いよりも、

「重大な脆弱性への対応として、以下の時間帯に緊急メンテナンスを実施します」

という、実施を前提とした周知を提案したいところです。

実際にどこまで踏み込めるかは、組織の権限や運用ルール次第です。緊急変更の手続きが定められているのであれば、それに従って進めます。

ただ、こういうときのために緊急変更という仕組みが存在するのですから、使えるものは使っていきましょう。

※ 検証環境を用意できる程度には時間と予算と環境に余裕がある方は、その環境にいることを感謝しつつ、検証を重ねていきましょう。

また、再起動を伴う作業ですから、実施前には復旧手順や切り戻し方法も確認しておきます。

  • 旧カーネルから起動できるか
  • VPSの管理コンソールから操作できるか
  • バックアップやスナップショットは取得できているか
  • 再起動後にサービスが正常稼働しなかった場合、どう復旧するか

このあたりを押さえたうえで作業に入ります。

以下の手順は、

  • 個人運用なので、そもそも政治交渉が不要
  • 組織内でフェイズゼロをクリアした

方向けのものです。

技術的には数分で終わる作業でも、その数分を確保するために何日もかかる。

サーバー運用とは、往々にしてそういうものです。

ですが、今回のような脆弱性対応では、その何日間をどこまで短縮できるかも、運用者の仕事だと考えています。

3. さっくりとした手順

以下の流れで対応します。

3.1. 事前確認

  1. 現在のカーネルを確認します。 uname -r
  2. MPTCPの設定を確認します。 sysctl net.mptcp.enabled
  3. MPTCPの使用状況を確認します。 sudo ss -Mlnp
  4. TCPリクエスト移行機能の設定を確認します。 sysctl net.ipv4.tcp_migrate_req

3.2. 暫定対応

  1. MPTCPを無効化します。 sudo sysctl -w net.mptcp.enabled=0
  2. 設定ファイルを作成します。 echo "net.mptcp.enabled = 0" | sudo tee /etc/sysctl.d/99-disable-mptcp.conf
  3. 設定を反映します。 sudo sysctl --system
  4. 設定を確認します。 sysctl net.mptcp.enabled

3.3. 修正カーネルの適用

  1. パッケージ情報を更新します。 sudo apt update
  2. カーネルパッケージの更新候補を確認します。 apt-cache policy linux-generic linux-image-generic
  3. 修正済みパッケージが提供されている場合、更新します。 sudo apt install --only-upgrade linux-generic linux-image-generic
  4. OSを再起動します。 sudo reboot
  5. 稼働カーネルを確認します。 uname -r

以上です。

なお、手順5~8はMPTCPを使用していない環境での暫定対応です。

MPTCPの無効化だけでは、今回の脆弱性への対処は完了しません。

また、手順11以降は修正済みカーネルが提供されてから実施します。

4. 詳細手順

4.1. 現在のカーネルを確認

まずは、稼働中のカーネルを確認します。

uname -r

ここで表示されたバージョンを控えておきます。

続いて、インストール済みのカーネルパッケージを確認します。

dpkg -l | grep linux-image

現在使用しているカーネルと、インストール済みのカーネルを把握しておきます。

特に、更新後に問題が発生した場合、旧カーネルで起動できる状態かどうかは重要です。

4.2. MPTCPの使用状況を確認

MPTCP(Multipath TCP)は、複数のネットワーク経路を利用して1つのTCP通信を構成するための拡張プロトコルです。

例えば、Wi-Fiとモバイル回線を併用し、通信経路を切り替えながら接続を維持するような用途で使用されます。

Linuxでは、次のカーネルパラメータでMPTCPの有効・無効を制御できます。

net.mptcp.enabled

現在の設定を確認します。

sysctl net.mptcp.enabled
  • 1:有効
  • 0:無効

続いて、MPTCPを使用している待ち受けソケットを確認します。

sudo ss -Mlnp

MPTCPを使用しているサービスが表示された場合は、そのサービスへの影響を確認します。

特に、Go 1.24以降では、Linux上の待ち受けソケットでMPTCPが利用される場合があります。

意図的にMPTCPを設定していなくても、アプリケーション側の実装によって利用されている可能性があるため、確認しておきます。

4.3. TCPリクエスト移行機能を確認

今回の脆弱性では、TCPリクエストソケットの移行処理にも類似した問題があります。

この機能に関係するカーネルパラメータが、以下のものです。

net.ipv4.tcp_migrate_req

設定を確認します。

sysctl net.ipv4.tcp_migrate_req

通常は0です。

1になっている場合は、TCPリクエスト移行機能を使用している可能性があります。

この機能を意図的に有効化している場合は、使用目的を確認したうえで対応を検討します。

5. 暫定対応:MPTCPの無効化

修正済みカーネルが提供されるまでの間、攻撃対象となる機能を減らす方法として、MPTCPの無効化があります。ただし、ここは少し注意が必要です。

今回の脆弱性の本体はIPv4 TCPのソケット処理にあります。MPTCPを無効化することで、MPTCPを利用した攻撃経路を制限することはできますが、通常のTCP処理に存在する脆弱性そのものが解消されるわけではありません。

また、Red Hatのセキュリティ情報では、この脆弱性に対して、同社の基準を満たす緩和策は提供されていないとされています。

そのため、MPTCPの無効化は、修正パッチが届くまでの攻撃対象領域を減らす措置として扱います。

5.1. MPTCPを無効化

MPTCPを使用していないことを確認したうえで、以下のコマンドを実行します。

sudo sysctl -w net.mptcp.enabled=0

この設定は即時反映されます。MPTCPを使用しているサービスが存在する場合は、サービス側の再起動なども含めて確認が必要です。

5.2. 再起動後も設定を維持

sysctl -wによる設定変更は、OSを再起動すると元に戻ります。

再起動後も無効化した状態を維持する場合は、設定ファイルを作成します。

echo "net.mptcp.enabled = 0" | sudo tee /etc/sysctl.d/99-disable-mptcp.conf

設定を反映します。

sudo sysctl --system

最後に設定値を確認します。

sysctl net.mptcp.enabled

以下のように表示されれば設定完了です。

net.mptcp.enabled = 0

5.3. 設定変更による影響

MPTCPを無効化した場合、影響を受けるのはMPTCPを利用する通信です。

一般的なWebサーバーやSSH、データベースなどで使用される通常のTCP通信は、そのまま利用できます。

対象影響
Apache / Nginx通常のTCP通信に影響なし
SSH通常のTCP通信に影響なし
MySQL / PostgreSQL通常のTCP通信に影響なし
MPTCP対応アプリケーションMPTCPによる通信が利用できなくなる
マルチホーム環境MPTCPを利用した経路制御に影響

一般的なVPSやWebサーバーでは、MPTCPを意図的に利用しているケースは多くありません。

筆者のようにApacheを中心としてWebサービスを公開している環境であれば、通常のTCP通信に対する影響はありません。

ただし、Go製のアプリケーションなどがMPTCPを利用している可能性もあるため、使用状況を確認したうえで設定を変更します。

6. 根本対策:修正済みカーネルへの更新

今回の脆弱性はカーネル内部の処理に起因するため、根本的な対策は修正済みカーネルへの更新です。

Ubuntuでは、上流のLinuxカーネルで修正が公開されていても、Ubuntuの公式パッケージに反映されるまでには時間差があります。

また、Ubuntuでは修正内容が既存のカーネル系列にバックポートされることがあります。

そのため、単純にuname -rの数字だけで修正済みかどうかを判断するのではなく、Ubuntu Security Trackerで対象パッケージの修正状況を確認します。

6.1. パッケージ情報を更新

sudo apt update

続いて、カーネルパッケージの候補を確認します。

apt-cache policy linux-generic linux-image-generic

修正済みパッケージが提供されていることを確認してから、更新作業に進みます。

6.2. カーネルパッケージを更新

Ubuntu 24.04 LTSの標準的なGenericカーネルを使用している場合は、以下のコマンドで更新します。

sudo apt install --only-upgrade linux-generic linux-image-generic

更新時には、インストール対象となるパッケージとバージョンを確認します。

なお、HWEカーネルやクラウド向けカーネルなどを使用している場合は、対象となるパッケージが異なります。

その場合は、現在使用しているカーネル系列に対応したパッケージを更新します。

6.3. OSを再起動

カーネルパッケージの更新が完了したら、OSを再起動します。

sudo reboot

この操作によって、サーバー上で稼働しているサービスは一時的に停止します。

事前に確保した作業時間内で実施します。

6.4. 更新後の確認

再起動後、稼働カーネルを確認します。

uname -r

続いて、インストール済みのカーネルパッケージを確認します。

dpkg -l | grep linux-image

Ubuntu Security Trackerで確認した修正済みパッケージが適用されていることを確認します。また、ApacheやSSHなど、サーバー上で稼働しているサービスについても動作確認を行います。

7. 切り戻し

設定変更後に問題が発生した場合に備え、切り戻し方法もまとめておきます。

7.1. MPTCPの設定を元に戻す

まずは、設定ファイルを削除します。

sudo rm /etc/sysctl.d/99-disable-mptcp.conf

続いて、MPTCPを有効化します。

sudo sysctl -w net.mptcp.enabled=1

設定を確認します。

sysctl net.mptcp.enabled

以下のように表示されれば設定完了です。

net.mptcp.enabled = 1

なお、この手順は変更前の設定が1だった場合のものです。変更前から0だった場合は、その状態を維持します。

また、既存のMPTCPソケットについては、必要に応じてサービスの再起動を行います。

7.2. カーネル更新後に問題が発生した場合

カーネル更新後にOSが正常起動しない場合は、GRUBから旧カーネルを選択して起動します。

VPSの場合は、管理コンソールなどから復旧操作を行います。そのため、作業前には以下を確認しておきます。

  • 旧カーネルが残っていること
  • 管理コンソールから操作できること
  • 必要なバックアップが取得されていること

特に、SSHでしか接続できない環境では、再起動後にネットワークが利用できなくなると復旧が難しくなります。

このあたりは、フェイズゼロで確認しておくべき項目です。

おわりに

今回のCVE-2026-98432は、LinuxカーネルのIPv4 TCP処理に存在するUse-After-Freeの脆弱性です。

対応としては、

  1. 現在のカーネルと修正パッケージの提供状況を確認する
  2. MPTCPを使用していなければ、暫定的な無効化を検討する
  3. 修正済みカーネルが提供され次第、更新と再起動を実施する

という流れになります。

そして、今回改めて意識したのは、技術的な対応そのものよりも、その作業時間をどう確保するかという点です。カーネルの更新は、コマンドだけを見れば難しい作業ではありません。

しかし、組織で運用しているサーバーの場合、OSの再起動というだけで相応の調整が必要になります。

そこで「業務に影響があるから」という理由だけで更新を先送りするのであれば、脆弱性を放置することで発生するリスクも、同じように評価する必要があります。

未来を完全に予測することはできなくても、未来に向けて判断できる状態を維持することはできます。

そのためにも、今回のような脆弱性への対応では、技術的な対策と同じぐらい、迅速に判断して実行できる環境を整えておきたいところです。

ピボット旅行2026-25『崩れたバイアス-3- Cover is not the Book』

はじめに

高松を拠点に四国・中国地方を旅した2026年のピボット旅行。当初、筆者が高松に期待していたものは、それほど多くありませんでした。

四国と岡山・広島を行き来しやすい。うどんも本場で食べられる。それならば、旅の拠点として申し分ないだろう。その程度の認識です。

で、雨ばかりだったというのは既にお話ししたとおり。雨は更に厳しくなっているため、雨でも楽しめる近場のスポットをAIに尋ねてみます。そこで返ってきた答えが、高松中央商店街でした。

……商店街?

確かにアーケードがあれば雨に濡れずに歩ける。そういう意味では合理的な提案です。しかし、旅先でわざわざ商店街を歩く必要があるのだろうか。

筆者の頭の中には、地方の商店街に対する、ある種のイメージがありました。

  • どこか懐かしい店並み。
  • 地元の人たちが日用品を買いに来る場所。
  • 郊外型の大型商業施設に客を奪われ、シャッターの閉まった店舗が目立つ場所。

もちろん、筆者は高松中央商店街を歩いたことすらありません。それなのに、なぜか「商店街」という言葉だけで、見る前からその姿を想像できた気になっていました。

今回は、そんな自分の認識が崩れていった話です。

片原町から始まる「やっぱりね」

高松中央商店街、片原町エリアから歩き始めました。落ち着いた佇まいのアーケード。昔ながらの商店街らしい雰囲気。雨をしのぎながら歩くには、ちょうどいい場所です。

「うん、やっぱり地方のアーケード商店街だな」

歩き始めた筆者の感想は、そんなものでした。別に、悪い場所だと思ったわけではありません。土地ごとの日常を感じられるのは、旅の楽しみの一つです。

ただ、筆者の中では、この時点ですでに一つの分類ができあがっていました。

  • 地方の商店街。
  • 落ち着いた街並み。
  • 昔ながらの店。

雨の日に歩くには便利だけれど、わざわざ遠くから見に来るほどのものではないだろう。実際に目の前にある風景を見ながら、筆者はそれを、以前から知っていた商店街のイメージに当てはめていました。

そして、当てはまったことに納得していたのです。

「ほらね、やっぱり普通の商店街じゃないか」

今にして思えば、これが厄介なところでした。

筆者が歩いたのは、まだ商店街の一部にすぎません。それなのに、そこで見た景色をもって、全体もおおむね同じようなものだろうと考えてしまった。

知らないものを、知っているものの延長として理解する。その方が、いちいち考え直さなくて済みます。過去の経験を使って目の前のものを分類すれば、判断にかかる手間も少なくなります。

日常生活では、こうした判断が役立つ場面も多いでしょう。ただし、その分類が正しいかどうかは、また別の問題です。

そして、このときの筆者は、自分の分類が正しいかどうかを確かめる前に、すでに納得しかけていました。

「……ティファニー? ここ、表参道だっけ?」

そのまま歩いていき、丸亀町エリアに足を踏み入れたところで、様子が変わりました。まず、頭上のアーケードが異様に高い。

それまで歩いていた場所とは、空間の印象が明らかに違います。光が差し込む開放的な構造に、整然とした舗道。そして、沿道の店舗が目に入ってきました。

  • ルイ・ヴィトン。
  • シャネル。
  • グッチ。
  • ティファニーにエルメス。

「……え、LV? ここ高松だよね? 銀座か表参道の間違いじゃないよね?」

思わず立ち止まります。見上げれば、巨大なガラス屋根がドーム状に広がっています。イタリアのガレリアを思わせる空間に、ハイブランドの店舗が堂々と並んでいます。先ほどまで筆者が思い浮かべていた「地方の商店街」とは、ずいぶん違う光景でした。

ここで、ようやく自分の認識に不具合が生じます。いや、実際には、商店街の方は最初から何も間違っていません。間違っていたのは、商店街を歩く前から、その姿を知っているつもりになっていた筆者の方です。

しかも、片原町で感じた「予想通り」という印象が、丸亀町まで含めた商店街全体の評価にまで広がりかけていました。

最初に見た景色が、自分の先入観に合致した。だから、その先も同じだろうと思った。

もし、そこで引き返していたら、筆者は高松中央商店街について「地方の普通の商店街だった」という感想を持ち帰っていたかもしれません。

実際に歩いていない場所についてまで、です。

なぜ、自分の知っている範囲を世界の基準にしてしまうのか

ここで、今回の出来事を少し振り返ってみます。筆者が高松中央商店街に対して抱いていた先入観は、どこから来たのでしょうか。

高松に対する特別な悪感情があったわけではありません。商店街という存在そのものを否定していたわけでもありません。

筆者が知っていた商店街のイメージを、高松の商店街にも適用した。それだけのことです。しかし、考えてみると、これはなかなか乱暴な話です。

筆者は高松中央商店街について、事前に詳しく調べていたわけではありません。丸亀町の再開発についても、ハイブランドの店舗が並ぶことについても、現地を訪れるまでは知りませんでした。

つまり、判断するための情報が不足していたのです。それでも、人間は情報がそろうまで判断を保留するとは限りません(クソデカ主語)。手元にある経験や知識を使って、ひとまず目の前のものを理解しようとします。

未知のものを、既知のものに置き換える。そのおかげで、筆者たちは初めて訪れる場所でも、ある程度は迷わず行動できます。

ただ、その便利な仕組みには落とし穴があります。

自分が知っている範囲から作ったイメージを、いつの間にか対象そのものの特徴だと思い込んでしまうのです。筆者にとっての「地方の商店街」は、これまでに見聞きした経験から作られたイメージでした。ところが、実際に高松中央商店街を歩くと、そのイメージに収まらない場所がありました。

本来なら、そこで「自分の知っている商店街とは違うものがある」と考え直せばよかったのですが、以下のバイアスが発生していました。

  • 自分の経験を基準にして世界を見ること。
  • その基準に合致するものを見つけて、自分の認識を正しいと思い込むこと。

今回の出来事には、そうした認知バイアスの働きが表れていたように思います。

調べて分かった「奇跡の商店街」の背景

現地で受けた衝撃は、それだけでは終わりませんでした。

ホテルに戻ってから、高松丸亀町商店街について調べてみると、目の前に広がっていた景色には、きちんとした背景があることが分かりました。

高松丸亀町商店街は、自然に現在の姿になったわけではありません。

モータリゼーションの進展や郊外型商業施設の台頭など、全国の商店街が直面してきた課題に対して、地権者たちが一体となって再開発に取り組んできた場所です。

その過程では、土地の所有と利用を分離する仕組みなどが活用され、まちづくり会社を中心に街全体の再構築が進められました。また、単に店舗を新しくするだけではなく、広域から人を呼び込む商業空間を目指し、ハイブランドの店舗なども誘致しています。

筆者が現地で驚いた、開放感のあるアーケードや洗練された街並みは、そうした長年の取り組みの結果だったのです。

つまり、筆者が最初に抱いた「地方の商店街」というイメージでは、この場所が積み重ねてきた歴史も、再開発の工夫も、目指してきた街の姿も捉えられていませんでした。

知らなかったのだから、最初から理解できていなかったのは当然です。問題は、知らなかったことそのものではありません。知らないにもかかわらず、知っている範囲の情報だけで、分かったつもりになっていたことです。

自分のバイアスが崩れるということ

今回、筆者の認識を変えたのは、AIの推薦でした。

雨でも楽しめる場所として高松中央商店街を紹介され、ひとまず歩いてみた。片原町で予想通りだと感じ、そのまま南へ進んだところで、丸亀町の景色に驚かされた。

  • もし、AIに尋ねていなければ。
  • もし、片原町を歩いただけで満足していたら。
  • もし、最初に抱いた印象を疑わず、引き返していたら。

筆者は、自分の先入観を補強するだけで、この商店街を後にしていたかもしれません。最初の印象が間違っていたという事実だけではありません。

筆者には、自分が間違っているかもしれないと考えるきっかけが、最初から十分にあったわけではなかったのです。知らない場所について、知っている場所と似た印象を受けた。だから、知っている場所と同じようなものだと考えた。

それは、特別に愚かな判断だったわけではありません。手持ちの経験を使って未知のものを理解しようとする、ごく自然な流れだったのでしょう。

だからこそ、厄介なのです。

自分の経験を基準にすること自体は避けられないとしても、その基準が通用しない場所まで、同じ物差しで測ってしまうことはあります。

そして、自分の判断が間違っていたと気づくには、その物差しでは測れないものに出会う必要があるのかもしれません。

筆者が知っているつもりだった「地方の商店街」というカテゴリーは、現地を歩くうちに、少しずつ役に立たなくなっていきました。

自分の知っている範囲を世界の基準にしてしまうのは、なぜなのか。それは、知らないものを理解するために、自分がすでに持っている知識や経験を使うからでしょう。

では、その基準が目の前の現実と食い違っていたとき、筆者たちは自分の認識を修正できるのでしょうか。

少なくとも今回、筆者はAIの推薦に従って歩き続けたことで、自分の思い込みが通用しない景色に出会うことができました。

そして、旅の面白さは、見知らぬ土地の景色を楽しむことだけではないのだと、あらためて感じたのです。

自分が世界をどう見ているのか。その見方自体が、旅先で崩れることもある。

終わりにかえて -Cover is not the Book-

筆者が大好きな歌、『メリー・ポピンズ・リターンズ』の『本は表紙じゃ分からない(Cover is not the Book)』に書かれている

Cover is not the book / 心が目に見えないように本も
So open it up and take a look / 表紙の美しさに騙されちゃダメ
'Cause under the covers one discovers / 中身読んだらやさしい王様
That the king may be a crook / 詐欺師だとわかるかも

この逆のパターンでした。「地方の商店街」という表紙からは、総延長2.7km、ハイブランドとファストファッション、そして地元民、高所得層、観光客をまとめて迎え入れる本を「実際に読んで」分かったというお話しでした。

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